記紀に記述される、皇子・日本武尊(やまとたけるのみこと)は謎が多い。古事記と日本書紀の内容が食い違っている。で、実在したかもあやしいとされております。更に尊が持つ草薙劔(くさなぎのけん-草薙の剣)も謎が多い。何せ八岐大蛇(やまたのおろち)の尻尾の中から出て来た神剣ですから。尊の一生、東征武勇伝やらを書かずとも、1回では終わらない。日本神話(戦前は歴史だったそうです)の英雄ですからね。2回に分けて綴ります。
「草薙の剣」に纏(まつわ)る謎について。
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写真素材無料壁紙/空・雲倭(ヤマト)は 国のまほろば
たたなづく青垣 山隠(ごも)れる
倭しうるわし
ー日本武尊ー
倭は 真秀(まほ)なる国どころ
たたみ連なる青々に垣 その山々に囲まれた
倭こそ美しいヤマトタケルは、伊吹山で神の化身の白い大猪(←古事記の記述。日本書紀では大蛇)に、大氷雨を降らされ、病に倒れる。やっとの思いで、能煩野(のぼの〜現三重県鈴鹿市から亀山市辺り)まで来たが、故郷の倭(奈良)まで後一歩の此の地で命燃えつく。其の時に歌ったとされる有名な歌であります。タケルは、命尽きて白鳥(しらとり)に化し、飛翔する。
「倭(奈良)」を「日本全体」と思っちゃっても善いと思いますがね。現に殆どの人が此の歌は日本の情景だと思っている。土地に固執したんじゃ寂しい。和国(日本国)の方が最期に相応しく美しい。
↑ヤマトタケル
○やまとたけるのみこと(72年頃–113年頃)。表記 日本武尊(日本書紀)、倭建命(古事記)、日本武命(尾張国風土記、古語拾遺)。別名、日本童男・倭男具那命(やまとをぐな)。倭武天皇(常陸国風土記)、倭健天皇または倭健天皇命(阿波国風土記)。
記紀に書かれる皇子。諱(あざな)は小碓尊(おうすのみこと)。第12代景行天皇の皇子・第14代仲哀天皇の父と謂われる。歴史上の英雄、闘将神として全国に祀られております。
ヤマトタケルは、神剣を携えていた。草薙剣(くさなぎのけん)であります。
須佐之男命(スサノオノミコト←此方の表記が一番馴染んでます)が八岐大蛇(やまたのおろち)を退治した時、尻尾から出たと謂う伝説の神剣であります。元の名は天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)。
八俣遠呂智
「時に素戔鳴尊(すさのおのみこと)、及(すなわ)ち所帯(は)かせる十握劔(とつかのつるぎ-別名 天羽々斬(あめのはばきり))を抜きて、寸(づたづた)に其の蛇(おろち)を斬る。尾に至りて劔(つるぎ)の刃少しき缺(か)けぬ。故(かれ)、其の尾を裂きて視(みそなわ)せば、中に一つの劔あり。
此所謂(これいわゆる)草薙
劔(くさなぎのつるぎ)なり。一書に云はく、本の名は
天叢雲劔(あめのむらくものつるぎ)。蓋(けだ)し大蛇居る上に、常に雲気(くも)有り、故以(かれも)て名(なづ)くるか。日本武皇子(やまとたけるのみこと)に至りて、名を改めて草薙
劔と曰ふ」・・・日本書紀
↑草薙
劔(剣)。イメージ写真尻尾を斬った時、
須佐之男命の十握劔が欠け、中から剣が出て来たと謂う。
十握劔は、赤磐郡吉井町(現岡山県赤磐市)の石上布都魂神社(いそのかみふつみたまじんじゃ)に祀られ、崇神天皇の代に奈良県天理市の石上(いそのかみ)神宮に納められたとされているが、確かではない。
明治7年に大宮司・菅政友が、神宮内の禁足地を掘った。十握劔を探すためであります。其の結果、土の中から棗(なつめ)玉、勾玉、鉄製の鏃(やじり)などが300点以上出て来た。
其の中に1本の錆びた襤褸襤褸(ぼろぼろ)の鉄剣が出て来た。全長二尺八寸(約85cm)、素環頭大刀と云われるものであります。其の剣には伝説の如く、刃こぼれの跡がはっきりと示されていた。剣は直ちに本殿に安置し、以来、石上神宮の御神体として祀られている。
扨(さて)、須佐之男命が取り出した天叢雲剣は、実姉天照大神に献上される。其の後、天孫降臨の折り、天照大神は孫の瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)に「八尺の勾璁(やさかのまがたま)、八咫鏡(やたのかがみ)、天叢雲剣」と、三種(みくさ)の神代を授けた。
三種の神器・・・で、あります。
現在は「八咫鏡」は、伊勢の皇大神宮に、「天叢雲剣(草薙
劔)」は、熱田神宮に奉斎され、「八尺の勾璁」は、皇居御所に安置されていると云われる。
天孫降臨の其の後、三種の神器は瓊瓊杵尊三代後の神武天皇に受け継がれ、幾代後の開化天皇まで、皇居に留め置かれます。
10代崇神天皇6年、豊鍬入姫命(とよすきいりびめのみこと-生薨年不詳)は、父天皇の命で、八咫鏡(天照大神)と天叢雲剣を宮中から笠縫邑(かさぬいのむら)に遷(うつ)し、祀った。其の後、11代垂仁天皇25年、2種の神器は伊勢国五十鈴川上の磯宮(いそのみや)に遷され、皇女倭姫命(やまとひめのみこと)と祭祀を交代し、奉侍(ほうじ)した。伊勢神宮の始まりであります。
続いて12代景行天皇時、皇子ヤマトタケルは、蝦夷(えぞ-アイヌ)征伐の途すがら伊勢に詣でる。其の時、叔母の倭姫命から天叢雲剣を授けられるのであります。
「日本武尊(やまとたけるのみこと)、初めて駿河に渡る。其の處の賊(あた)、陽(いつわ)り従ひて、欺(あざむ)きて曰(まう)さく、『是の野に、麋鹿(おほじか)甚だ多し・・・・・臨(いでま)して狩りたまえ』とまうす。日本武尊、其の言(こと)を信(う)けたまひて、野の中に入りて覓獣(かり)したまふ。賊、王(みこ)を殺さむといふ情(こころ)有りて、其の野に放火焼(ひつく)王、欺かれぬと知(しろ)しめして、則ち燧(ひうち)を以て火を出(うちいだ)して、向焼(むかえびつ)ける免るること得たまふ。一(ある)に云はく、王の所佩(はか)せる劔、叢雲(むらくも)、自ら抽(ぬ)けて、王の傍(かたはら)の草を薙ぎ攘(はら)ふ。故(かれ、其の劔を號(なづ)けて草薙と曰(い)ふ)」・・・日本書紀
ヤマトタケルが東征の折り、焼津の地で、敵に欺かれ野原にて焼き討ちにされた。其の時、腰元の叢雲剣が、生き物の如く勝手に飛び出し、草を薙ぎ払い皇子のピンチを救った。
だから「草薙の剣」とした。つまり、此の時より、天叢雲剣を草薙剣に改名したのであります。
扨(さて)、ヤマトタケルは1900年前の人であります。草薙剣は、何れ程の月日、彼方此方に移されたのか?現在は、名古屋熱田神宮に御神体として祀られている・・・との事ですが、どうもあやしい。
↑安徳天皇縁起絵図/赤間神宮所蔵
特によく知られる源平合戦・壇ノ浦の戦い(元暦2年/寿永4年3月24日-1185年4月25日)時、草薙剣は安徳天皇と共に海中に没っし、源氏側は三種の神器を奪う筈であったが、二種しか手に入らなかった。草薙剣が視付からなかったと謂われています。つまり、現存する草薙剣は、偽物?レプリカ?なのでしょうか?
・・・後編に続く