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あ や し い 書 簡 箋

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大秦秦河勝
面霊気
↑鳥山石燕 百器徒然袋「面霊気(めんれいき)」

絵画文中
聖徳(しゃうとく)太子の時
秦(はた)の川勝(かわかつ)
あまたの仮面(めん)を製(せい)せしよし。
かく生(いけ)るがごとくなるは
川勝のたくめる
仮面にやあらんと
夢心におもひぬ

古くなった面は魂を宿して、「付喪神(つくもがみ〜器物が変化した妖怪)」になる。

文中→秦川勝(秦河勝〜はたのかわかつ、生没年未詳)、聖徳太子(厩戸皇子)の側近。猿楽の祖・泰河勝は聖徳太子が作った面を与えられ、面霊気は此の説話をもとに描かれたとされています。能楽の観阿弥・世阿弥親子は河勝の子孫と称しました。

秦河勝
↑秦河勝

妖怪の話ではないです。秦河勝の話です。
秦河勝は、徐福の子孫とか、「大秦〜だいしん(禹豆麻佐〜うずまさ)=羅馬(ローマ)」出身、或いは古代ペルシャ人、古代ユダヤ人末裔説、応神天皇時の渡来民「弓月君」の子孫などとも云われています。つまり、何だか善く解らないけれど、実在した人物で、其の才質を買われ、聖徳太子から京都太秦に地を授かった、渡来人秦集団の長でありました。機(はた〜秦?)織りなどに優れ、其の財力を太子に奉仕したと云われます。

宮下文書中では、富士山麓で果てた徐福の子孫、または徐福が秦国(古代中国)から連れて来た者たち(3000人)の子孫で、富士山麓に遣って来た聖徳太子と会ったとされている。太子は未だ少年だった河勝を気に入り、奈良へ連れて帰り、其の後京都太秦の地を与えたと云う。
駿河国富士川辺りにて、大生部多(おおふべのおお)と云う教祖を中心に「常世神」を崇める宗教集団を河勝が追討した云う説話が残っていますが、大分、後世の話であります。

方士徐福、奇怪な「宮下文書」を残す

扨(さて)、河勝のことは以前、宮下文書の項で、少し書きましたが、今回は異なる伝承であります。一体何が真実か?善く解らない。謎が多い。
秦河勝の先祖は、ネストリウス派基督(キリスト)教(景教)の一派であると云う説。
ネストリウス派とは「聖母マリアを信じない。マリアは基督を産んだ、只の器に過ぎない。だから聖母では無い」と云う古来宗派であります。当然ながら羅馬(ローマ)から一派事、追放された。放浪の末、中国(秦の時代)に流れ着いたと云う。彼等は胡人と呼ばれ、其の容貌は彫深く鼻高い。亜細亜人とは異相であり、特に女人が美しい。其の為、慰めものにされたはずであります。殉教者が多く出たのではないか?
其の後、韓国を抜けて日本に遣って来た。日本は八百万(やおよろず)神であります。受け入れてくれた。其の子孫が秦河勝である・・・と云う。河勝も胡人らしき顔立ちであったと云われます。

つまり、古来中国の秦一族では無い。大秦の秦であります。
禹豆麻佐(うずまさ)と云う姓を貰ったのでありますが、太秦の漢字を当て、土地名にした。どう考えても、太秦(うずまさ)とは読めませんな。

奈良法隆寺建設の折り、胡人を雇ったと云う記述が残っている。河勝の一派だったのではないか?河勝は太子を郷に招待したでしょう。太子は仏教に帰依していた。太秦は異教だと解っていたので、そうそう行ったとは思えない。其の為、聖徳太子が基督教だったと云う伝説があります。

聖徳太子、メシアとなりて

河勝は太子から弥勒菩薩半跏思惟像を賜り、広隆寺を建てた。其の寺には、色色な隠しサイン(暗号)が在る。
意味不明な立体三柱鳥居。いすらえ(えすらえ〜イスラエル、イスラム?)の井戸。
三柱鳥居は全国に数カ所存在しております。其の1つ東京向島の三囲神社は三井財閥と関係が深い。

三囲さまの妖気

三柱鳥居は上から視ると古代ユダヤの紋章に酷似する。

三囲神社は元は田中稲荷と称していた。
元禄6年(1693年)、俳人其角が当地に来て、地元の者の哀願によって、「遊(ゆ)ふた地や田を見めくりの神ならは」と一句を奉った処、翌日、雨が降った。此の事から神社の名が広まり、京都の豪商三井氏が江戸に進出すると、守護神とし、三越の本支店に分霊を奉祀した。
三柱鳥居は「三井邸より移す。原型は京都太秦・木嶋神社にある」と表示がある。鳥居が3本並び、手水場が三角、三つ穴灯篭、三井財閥。何かと「三」です。三井家は秦一族であるかもしれない。

仏教によって律令国家を考えていた日本の中で、暗号的な事柄を用いて隠した。其の後、歴史からも消え去った。
河勝が没したのは赤穂の坂越と云う場所であります。一説には流罪に遭ったとされます。坂越浦を前に秦河勝を祭神とする大避(おおさけ)神社(ダビデ〜大闢(漢訳=だいびゃく)の礼拝堂)が鎮座し、神域の生島には秦河勝の墓がある。広隆寺近隣には大酒神社が在り、広隆寺境内から現社地へ遷座したものだと云うことです。
| 15:05 | 玄妙倭國伝説・民話 亜細亜 | - | trackbacks(0) |
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