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あ や し い 書 簡 箋

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三蔵法師は偉い人

↑玄奘三蔵

中国の古代説話「西遊記」。誰もが知ってる孫悟空。ドラゴンボールじゃないですよ。
ドラゴンボールには悟空の仲間に豚(猪八戒?)は出て来るが、河童(沙悟浄は本来、河童では無いが)は出て来ない。ピッコロが近いのかな?坊主も出て来ない。

「西遊記」の悟空はサイヤ人(宇宙戦士)じゃないよ。石から生まれた猿なんだよ。
どうも此処の処を説明しておかないと・・・。「えっ?!違うの?」なんて云う人が出て来るかもしれないんで。

中国古代説話「西遊記」の中心人物が三蔵法師。此の人は実在した人です。
中国に仏典を齎(もたら)した偉いお坊さんなんですよ。日本も感謝しなければいけない。

玄奘三蔵(げんじょうさんぞう〜600年若しくは602年〜664年)。中国唐時代の僧侶。
13歳の時、僧になり、法名を玄奘と呼ばれた。其の後、仏法と高僧の教えを求めて、中国各地を巡歴したが、疑問が深まるばかりだった。
つまり、此の時代の経典や教えやらは、言伝えのいい加減だったわけです。彼は本場天竺(てんじく〜インド)に赴き、原典に接し、漢訳解義を得るしかないと思い立ったのです。

しかし、当時の唐の国は鎖国政策をとっており、国の出入りを禁止していた。貞観3年(629年)玄奘27歳。密出国。
身近な者達は目的を知っていたが、「彼は生きては帰って来ないだろう」と噂した。
過酷な旅であり、当時、其の界隈は盗賊等、頻繁で、末には妖怪や魔が渦巻いている・・・などとも云われていた。道筋は灼熱のタクラマカン砂漠を歩き、厳寒の天山山脈を越え・・・と云う苛酷な旅。

しかし、17年後、彼は帰って来たのです。貞観19年(645年)、大量の天竺の経典を携えて。
「信じられない!奇跡だ!」唐の国は驚喜乱舞。唐の帝・太宗が使者を出し、大歓迎された。
玄奘は、持ち帰った仏典の翻訳に残りの生涯を賭け、麟徳元年(664年)62歳で没した。
彼が翻訳した経典の数は、大般若経600巻をはじめ74部1335巻。「般若心経」の基となったのが、大般若経です。

「西遊記」が生まれた経緯がお解りになると思う。
菩薩に見守られ,、超人の御供を従えて、魔界を超え、悪鬼や悪し妖怪を懲らしめて天竺へ・・・。魔術と妖術の世界。そりゃ、面白いに決まってる。
無論、孫悟空や猪八戒、沙悟浄は存在しない。玄奘の口述から記した「大唐西域記」、玄奘の弟子の慧立<えりゅう>と<げんそう>が書いた「大唐大慈恩寺三蔵法師伝」が、元みたいです。

本来の玄奘三蔵の旅は、
天竺・西域、通過した国が128国、距離は3万km。出発してから天竺に辿り着くのに3年掛かり、中インドのナーランダー寺院にて戒賢論師に師事し、唯識教学を学び、インド各地の仏跡を訪ね歩いた。
帰路も往路と同じで、仏像・仏舎利のほかサンスクリット(梵語)の仏経原典657部を携え、長安の都に帰って来た。玄奘44歳。仏典の翻訳に生涯を賭け、62歳没。


↑遣唐使船と空海

平安時代初期の僧。空海(弘法大師 宝亀5年(774年) - 承和2年(835年)。
日本仏教の大勢が、奈良仏教から平安仏教への流れに位置し、中国より真言密教をもたらした。
延暦23年(804年)、遣唐使の留学僧として唐・長安に渡った。
師事したのは、醴泉寺の印度僧般若三蔵と云う人。

仏教に於いて、玄奘三蔵が日本に齎(もたら)したものも大きい。

弘法大師伝説が日本各地に5,000以上ある。どうも眉唾臭い。
弟子達によるものだとは思うんですが、興味ある譚が多い。
杖をつくと泉が湧き、井戸や池になった・・・なんて「弘法水」の伝承が各地にあるんですぞ。
伝承自体があやしいんですがね。

| 07:42 | 昔昔のお噺 | - | trackbacks(0) |
樋口一葉の勘違い在れ此れ

↑樋口一葉


↑一葉旧居と勘違いされる住居

東京本郷菊坂下の路地にある「一葉旧居跡」。こういう写真を「一葉旧居」とも視得る写真を雑誌などでよく見掛ける。其処に行けば、左右に一軒づつあるので、扨、何方(さて、どっち)?と、混乱するのです。
答えは2軒共、一葉が住んだ家ではない。大体、明治時代の家ではない。すでに無い・・・が正解であります。看板には、「一葉旧居跡」となっている。「跡」とはすでに無い・・・と云うことであります。路地中ではなく路地入り口辺りにあった2階建ての借家だったらしい。


↑一葉旧居は此の辺りでは、ないか?と思われる

大体、残っていれば国か区が保存指定し、大事に保管されているでありましょう。雑誌は、一葉関連でこういう写真を載せるのは「イメージ」なんですな。
しかし、そんな勘違いで此処を訪れる一葉ファンがいたら、気の毒であります。


↑一葉が使用した井戸

此のポンプ式の井戸は、大正~昭和初期のものではないかと思います。一葉の時代だったら、たぶん釣瓶で水を汲んでいたに違いない。しかし、此処を使っていた筈。

樋口一葉は、貧困の中で・・・と云われますが、幼少の頃は裕福でありました。
東大赤門前に約250坪の土地面積の家で暮らしていた。株買い士族の娘で幕府陥落後も、お父さんは政府に雇われております。貧困は父が政府を辞め、事業に失敗してからであります。10数回も引っ越しをしている。本郷、竜泉(三ノ輪の辺り)、黒門町(現湯島辺り)、白山。石碑が残ってたりは、しますが今は何も残っていないのです。東京とはそういう処であります、本郷菊坂下が有名なのは、使用したであろう井戸と通った質屋が現存しているからでしょう。


↑一葉が通った質屋

世に云う名作たちは、2年間で生まれた。時の森鴎外が絶賛したのであります。其のことから世に出た。其れを見守りつつ、死んでしまったのです。天才女流作家樋口一葉は肺結核により24歳と云う若さで亡くなったのであります。遠い昔、100年以上前の明治の半ばのことであります。
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江戸の始め
二重橋-02
↑皇居 正門石橋(せいもんいしばし〜前面石橋)と正門鉄橋(せいもんてつばし〜後面鉄橋)

二重橋-01
↑旧二重橋(旧西丸下乗橋辺り〜鉄箸)幕末若しくは明治初期撮影と思われる。

皇居二重橋と云うと、二本の橋が重なって視得ることから呼ばれている・・・・とお思いの方が多い。実は違う。写真では視得辛いが奥の鉄橋の以前の橋の名称であります。
江戸時代、まだ木橋だった頃,橋架け部分の濠が深く,橋桁を二重に組んでいたんだそうです。其れが二重橋と呼ばれるようになった由縁なんだそうです。
扨(さて)、そんな話をするんじゃなかった。江戸・・・・の話ですよ。

「江戸」の名の初見は「吾妻鏡」と云われ、江戸桜田郷に居を構える秩父重継の長男「江戸太郎重長」が、武蔵国の長として平氏に味方し、源頼朝と戦ったとある。 結局鎌倉時代から南北朝を経て江戸氏は滅びてゆくが「江戸」の地名は残った。

江戸の由来は、江の戸口にあったから・・・・と謂う説。アイヌ語で湾岸を「イト」と云い、其処から訛ったのでは?と云う説がある。

道灌
↑太田道灌(おおたどうかん)

江戸氏が滅びた後、長禄元年(1457年)関東を治める管領.上杉氏は家臣、太田道灌を江戸に封じ、千代田城(江戸城)が築かれる。
湯島、本郷、日暮里、上野などの台地の間を幾つもの川が流れて江戸湾に注ぎ、台地は森林に覆われ、海は現在の日比谷辺りまで入り込み、舟が浮かび、千鳥や鴎が群をなして飛び、先は湿地帯と小島が続いていた。
文明18年(1486年)、当時の主君だった上杉定正の策略により太田道灌は暗殺される。

家康
↑徳川家康

徳川家康は、天正18年(1590)豊臣秀吉に江戸へ封ぜられ、太田道灌の千代田城を根城にした。襤褸襤褸(ぼろぼろ)だったに違いない。入府した家康は荒れ果てた此の土地をどうしようか・・・と思いあぐねたろう。 海から攻められれば一溜まりもない。

江戸こそ

 家康は港湾都市建設(埋め立て)に力を注ぎ、灌漑、治水工事を3代をかけ、今で云う下町まで埋め立て、城下町を造った。 道具は鍬(くわ)であった。
美濃からの材を運ぶため、湿地帯と小島を繋げ、掘割りを作った。 下町に島の名が多いのは此のことに由る。人の手が入らなかった地区は先ず無い。下町は埋め立て地であり井戸を掘っても真水が望めなかったため、 所謂(いわゆる)山の手には、上水道設備が施された。
其の後、関東各地の産物は江戸に集荷するに留まらず、人と文化の交流も大いに潤いで、文化が花開き、東京の礎を創った。


わたしゃ東京下町生まれであります。「ここはさ、下を掘ると貝が出てくるんだぜ」と聞いていた。「貝?じゃ此処は海だったの?」此れが初めのクエスチョンだった。

東京と云う町は徳川が造ったと思って善い。街道もそうであります。江戸城を中心に蜘蛛の巣上になっているんです。確か深川は土地の豪商が埋め立てたんだと思った。
日比谷から東を埋め立てたのは防衛上の理由からであり、庶民たちや侍に宅地などを与えたのであります。埋め立て地が城下町であります。わたしが幼少の頃、未だ掘割りらしき(ドブだったが・・・)ものが在ったが、高度成長期の宅地造成、道路整備によって全て埋め立てられた。道路はコンクリートになったが、元元の道筋は江戸時代から、そう変わっていないのです。
東京都に文句を云えば、橋の上に高速道路を掛けるなよ。日本橋なんぞセンスの無さ丸出しですな。東京の恥です。川脇とか多いよね。

しかし、埋め立てって高度成長期からだと思ってたんだよね。「東京都は埋め立てが好きだねえ」なあんて思ってたら、江戸の頃からやってんだよ。400年続けてんだよ。徳川時代とは目的が随分と異なりますがね。
| 22:24 | 昔昔のお噺 | - | trackbacks(0) |
源氏の決意
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↑鶴岡八幡宮本宮

今年お正月の鎌倉鶴岡八幡宮さまです。両脇のでっかい破魔矢が善いですね。
御祭神は、応神天皇・比売神・神功皇后。
八幡神社は全国に約24.000社もあります。此れは源氏が天下を取ったことに関係する。
八幡神社が増えるのは鎌倉時代以降なのです。

八幡・・・はちまんと読みますが、古くはヤワタであります。ヤワタの神の出現話が残っている。
6世紀中頃、欽明天皇時代に、「誉田天皇(応神天皇)広幡八幡麻呂」と名乗る鍛冶の翁の神が現れた。身体はひとつに頭部は8つ。近づく者が大半死んだ。其の後、翁は金色の鷹と、金色の鳩に変身した。

初詣はまずは地元。其れから何かと縁のある此処です。幾日か経って人も疎(まば)らになる頃に来ます。鶴岡八幡宮を建立したのは源頼朝さん。誰でも知っている。では、何故?鎌倉に八幡宮を建てたんでしょう。

当時の鶴岡八幡宮は特異な建物でした。頼朝さんは此処で、京都宮廷の動きを窺(うかが)っていたわけです。つまり、政治の場であり、戦の作戦本部でもあったわけです。しかし、囲いをするようなことはしなかった。宮廷とは異なり、庶民が誰でも参拝出来る宮にしたのが鶴岡八幡宮なのです。此処が京都とは大きく異なった所為であります。三方を山に囲まれた自然の要塞。そんなことも考えにあったはずです。

扨(さて)、本宮階段下脇に下宮があります。

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↑若宮(下宮)

若宮(わかみや〜下宮)
本宮の御祭神応神天皇の御子、仁徳天皇ほか三柱の神様がお祀りされています。
若宮では左横で御朱印、護符やらを承っております。しかし、若宮はもう一つ在るのです。と云うのは・・・其のまた右横にあまり目立たない場所に紙垂をあしらった神木があります。

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↑由比若宮遙拝所

此処を「由比若宮遙拝所(ゆいわかみやようはいじょ)」と云います。
遙拝・・・遠くへだたった所から拝むこと。
八幡宮の元宮である由比若宮を此処でお参り出来るのです。

由比若宮(ゆいわかみや)

此れが鎌倉八幡宮の前身なのです。

鎌倉市材木座1-7
鎌倉駅から徒歩15分程。

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↑由比若宮

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康平6年(1063年)平安後期、源頼朝5代前、源頼義(よりよし)が、奥羽(東北)での戦「前九年の役(結果、安倍氏が滅んだ)」の勝利に感謝して京に帰る途中、此処に立ち寄り、源氏の守り神の京都石清水八幡宮祭神を移し、祀ったとある。
治承四年(1180年)頼朝が鎌倉に入った最初の場所。八幡太郎義家(源義家)が修復したとされる社殿に頼朝が神意を占った。後年、頼朝が社殿を他所に移し(現鶴岡八幡宮)、元八幡の異名でも呼ばれるようになりました。
地元でも元八幡が通り名ではないか?と思います。社号は「元鶴岡八幡宮」。
古くは「由比郷鶴岡」と呼ばれていたそうな。

想像していたものとは随分と異なりました。もっと小さく肋(あばら)屋みたいなのでは?と思っていた。確かに境内も社もこじんまりはしていますが奇麗でした。そりゃ、そうだよね。鎌倉源氏(河内源氏)にとって重要な場所ですから。祭事は今も行われているそうです。

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↑源義家「旗立の松」

頼朝さんが此処を訪れたのは頼義が祀ってから約120年後。
神意を占った・・・。天下をひっくり返す審議をですね。源氏の血を高らかに祈ったのに違いない。800年以上前の話です。
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弥平兵衛宗清と佐殿
八幡宮一の鳥居 ↑鎌倉八幡宮一の鳥居

頼朝
↑源 頼朝

源 頼朝(みなもとのよりとも。1192年 - 1199年)は、平安時代末期の河内源氏の源義朝の三男。父・義朝が平治の乱で敗れ、13歳で伊豆国蛭が池へ流刑される。30代になって平氏打倒の兵を挙げ、関東を平定。鎌倉を本拠にし、幕府を起した武将。建久3年(1192年)に征夷大将軍。後、鎌倉幕府と呼ばれ、史上初の武家政権が生まれる。かの義経は異母兄弟の弟にあたる。明治の王政復古まで、侍の世は約680年間続いた。
鎌倉幕府成立は、1192年又は1185年とされる諸説あるが、1185年が現在有力視されております。

扨(さて)、歴史話を多少でも知っている人なら、頼朝が30代まで約20年間、伊豆蛭が池に流刑されていた事を知っていると思われます。順を追っていると本題に物凄い量の文章が必要に成るので割愛します。

頼朝は平治の乱後、幼さ故に殺されず、伊豆に流刑になった・・・と、云われますが、実際には説得に奔った人達が居たからなのです。
其の名は「弥平兵衛宗清(やひょうびょうえむねきよ)」
頼朝は父義朝と共に都落ちし、美濃(みの)まで来た時、降雪の為、一行から逸(はぐ)れた。其処で平家一派の弥平兵衛宗清と云う武将に捕えられる。平治の乱の時、年少にも関わらず、一人前の働きをした頼朝であるが、普段は余程大人しく幼く視得たらしく、宗清は一目視て「哀れな・・・」と思った。
平清盛の父忠盛の後妻、池ノ禅尼(ぜんに)に頼朝の命乞いをして貰うべく清盛に説いて貰う様頼み込んだ。禅尼は先に息子家盛を亡くしている。宗清は、頼朝の事を「家盛どのに生き写しなのです」と云った。彼女は激しく心が揺れた。亡き我が子の菩提の為に「頼朝を助けたい」と思った。其の後、平清盛は頼朝を生かした。
しかし、其の数十年後、頼朝によって平家は滅ぼされるのであります。

宗清の清々しさは、後年、頼朝が起した鎌倉の世に成っても頼朝に恩を着せる事をせず、敗軍平家の中で運命を共にした事であります。此の時代、裏切り等当たり前の時代に節を通しているんです。しかし、其の最期はよく解らない。

以前、九州安徳天皇潜幸説を書いた。

安徳天皇潜幸説

其の中に他にも逃避箇所が幾つも存在すると書いた。鳥取県の潜幸譚に宗清の名が出て来る。

鳥取県私都(きさいち)川を遡った源流近くに平家の落ち武者の末裔の里があった。平安末期、壇ノ浦を密かに脱出し鳥取県賀露港に上陸した清盛の妻二位の尼時子が孫の安徳帝を奉じ武将や女官達に守られて燐郷の住職、岡益の光良院、宗源和尚の案内でこの里に遷幸されたそうな。
だが、悲運の安徳帝は僅か二年後、御病気により10歳で崩御されたと云われる。嘆き悲しんだ二位の尼以下の侍臣達は泣く泣くこの(平地)の地に葬り神社に御祀りしてより代々その御霊をお慰めしお慕い奉って現在に至っているという。
あるお宅の側の真新しい石碑には「1185年平家滅亡と共に安徳天皇御一行、私都郡姫路の里に難を逃れ付添武将弥平兵衛宗清者あり、安徳天皇崩御後宗清は姫路の里で農民となり・・・」とある。
夕陽の衛兵「平家の落ち武者と それからの安徳天皇」より一部抜粋

八幡宮横
↑鎌倉八幡宮横

宗清が居なかったら、鎌倉幕府は存在しなかったかもしれない、と云う不思議な逸話であります。
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