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あ や し い 書 簡 箋

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時空のSaint-Germain

↑サンジェルマン伯爵(Comte de Saint-Germain)

サンジェルマン・・・と云うと、わたしにゃパン屋しか思い浮かばない。
他パン屋の「ポンパドール(POMPADOUR)」は、仏蘭西(フランス)貴婦人の名から取ったそうです。
処が、此の女性、時のルイ15世の妾だったんです。余計なこと書いちゃったかな?
サンジェルマン(パン)のサイトに由来は書かれていない。多分、仏蘭西のサンジェルマン大通りから取ったのだと思います。しかし、元元サンジェルマンとは伯爵でありながら、怪しい研究に凝り、時空を超えて存在していて、今も何処かで生きていると云う噂の怪人なのです。

サンジェルマンとポンパドール夫人は同時代を生きて交流があった。しかし、摩訶不思議な話です。
どうもパン屋繋がりだなあ。

サンジェルマン伯爵(Comte de Saint-Germain 1691年/1707年? - 1784年2月27日)は、18世紀の欧羅巴(ヨーロッパ)を中心に活動したとされる。現在伝えられる同伯爵の伝記は、まるでヴァンパイアであります。吸血鬼では無いですが、生態其の物がです。つまり、一説には不老不死なのではないか?と。
前半生は不明点が多い。姿が確認されるのは、1758年以降フランス社交界であります。67歳。しかし、此の年齢も不確かで、其の頃の彼は40代以前にしか視得無かったと多く云われる。

彼は1746年まで英吉利・倫敦(イギリス・ロンドン)で過ごした。其の後、化学や錬金術研究のため、独逸(ドイツ)に居た説、印度(インド)、チベットに居た説など。

此の人は怪奇な譚が多く残されている。歴史上の人物との関わりが多く残されている。
天才か?詐欺師か?全ては嘘話なのか?よくわからない。

1758年初頭、仏蘭西・巴里(フランス・パリ)にて、ルイ15世宛に「人類が知る中で最も豊かで希有な発見の研究」のために王族施設を使わせてくれるよう要請書状し、シャンボール城を宛がわれた。サン・ジェルマンは助手や使役人を住み込ませ、研究室を作った。

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↑↑ポンパドゥール夫人(Madame de Pompadour)。ポンパドゥール侯爵夫人ジャンヌ=アントワネット・ポワソン(Jeanne-Antoinette Poisson, marquise de Pompadour、1721年12月29日 - 1764年4月15日)

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↑↑ルイ15世(Louis XV、1710年2月15日 - 1774年5月10日)。ブルボン朝第4代の仏蘭西国王(在位:1715年9月1日 - 1774年5月10日)。

時は、ルイ15世の時代、サン・ジェルマンは巴里で国王の愛人だったポンパドゥール公爵夫人と面会した。ポンパドール夫人のサロンには、貴族や芸術家などが出入りし華麗な社交場になっていた。サン・ジェルマンは夫人の紹介で王ルイ15世とも面識し、信頼されるようになる。

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↑↑エティエンヌ=フランソワ・ド・シュワズール公爵(Étienne-François de Choiseul、1719年6月28日 – 1785年5月8日)。仏蘭西王国の軍人、外交官、政治家、貴族。

ルイ15世の重臣ショワズール公爵は、サン・ジェルマンをよく思わなかった。
ショワズールは、1760年、サン・ジェルマンをスパイ容疑で告発した。彼は阿蘭陀(オランダ)に逃亡し、様様な土地で顔料と色彩の研究を披露した。

1766年、プロイセン王フリードリヒ2世の庇護を受けるが、1年で此処を発ち、バルト海ゴットルプに至り、ヘッセン (Hessen) の領主に身を寄せ、神秘主義の研究に没頭した。しかし研究生活が災いしたのか?健康を害して病没。死因はリューマチと鬱病であります。
ドイツのエッケルンフェルデの教会の戸籍簿には、「サン・ジェルマン伯爵。1784年2月27日死去。3月2日埋葬。一個人として当教会に埋葬」。93歳であったと云う。

此処までは其の半生が、現実的でありますが、既に冒頭の生誕年が合わない。93歳にて死去?では1673年生?。

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↑↑マリー・アントワネット・ジョゼファ・ジャンヌ・ド・ロレーヌ・ドートリシュ( Marie Antoinette Josepha Jeanne de Lorraine d'Autriche,、1755年11月2日 - 1793年10月16日)。仏蘭西国王ルイ16世の王妃。蘭西革命中、1793年刑死。

仏蘭西革命時、ルイ16世とマリー・アントワネットが捕えられた頃、マリー・アントワネットの侍女アデマール夫人の所に、サン・ジェルマン伯爵の使いと名乗る男が現れ、古い教会に連れて行かれた。其処には、死んだ筈のサン・ジェルマン伯爵が待っていた。ルイ16世とマリー・アントワネットの残酷な未来を見据えたかのように忠告をしている。
其の後、ギロチンによる死刑が行なわれたクレーヴ広場やパリ街中で、彼は多くの人に目撃されている。

彼の死後の目撃談や彼の逸話など摩訶不可思議な話が残されている。其の一部はこうです。

○自分の年齢を2000歳、4000歳などと云い、ソロモン王やシバの女王と会ったと語った。

○劇作家ニコラ・シャンフォール (Nicolas Chamfort) は、サン・ジェルマンの使用人に「貴方の主人は本当に2000歳なのですか?」と聞いた。彼は「其れはお教えすることが出来ません。私は300年しかお仕えしていないのですよ」と答えた。

○仏蘭西・バロック音楽の作曲家・音楽理論家のジャン=フィリップ・ラモー(Jean-Philippe Rameau, 1683年9月25日 - 1764年9月12日)は「自分は何度かサン・ジェルマンに会ったことがあるが、数十年経っても同じ年齢の彼だった」と、記している。

○「私は今から200年以上前に、西班牙(スペイン)国王フェルディナンド5世の大臣をした」と云い、当時の極秘公文書を視せてくれた。

○バビロニアでは、ネブカドネザル大王が建設した当時のバビロンの都に行ったとも云う。

○サン・ジェルマン伯爵より後の時代の発明。蒸気船、汽車、飛行機などを彼は詳しく語った。

○ルイ15世所有のダイヤモンドの傷を取り除いた。サン・ジェルマン伯爵の化学知識は同時代の水準を遥かに超えていた。

○彼が死んだとされる1784年以降に、サン・ジェルマン伯爵を目撃したと云う例が多い。1788年、ベネチアで目撃され、1822年、此れから印度(インド)に行くサン・ジェルマン伯爵に会ったと云う証人も居る。

○サン・ジェルマンは1984年から日本に滞在している。

等等。

扨(さて)、別件ではありますが、「朱(あか)い服の男」と云う怪奇な話が在る。

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↑ナポレオン・ボナパルト(Napoléon Bonaparte、1769-1821年)

ナポレオンは謎が多い。
例えば、近年、巴里(パリ)のカフェにナポレオンとモナ・リサにソックリな2人が居た。ナポレオン似の男は、いきなりモナ・リサ似の女性を其の場でナイフで刺し殺した。回りが驚く最中、ナポレオン似の男は素早く逃げてしまった。殺されたモナ・リサ似の女性の姿も跡形も無く消えていた。

以前、此処で埃及(エジプト)遠征時の不可思議譚を書いた。

ナポレオンはピラミッド内で何を視たか?

もう1つの埃及遠征時の話が残っている。サン・ジェルマン伯爵が絡んでいるのではないか?とされるものです。

古代埃及の叡智を知ろうと、ナポレオンはひとりピラミッド内で一夜を過ごしている。側近のひとりは、書き記(しる)した。

「われわれはピラミッドに近づいてはならないと厳命された。暁光がさしかけた時、ナポレオンが死人のように真っ青な顔をして出てきた。彼は完全に理性を失っていた。そしてうわごとのように『未来の幻を見た』と繰り返すのみだった。その後3日間、ナポレオンは誰とも会おうとしなかった」

其の後、ナポレオンは神秘主義に嵌って行く。彼の政策決定を占星術師が占うようになる。
そして、昼間でも視得、自分にしか視得無い幸運の星が空にある・・・と周囲に云った。

彼はピラミッド内で「朱い服の男」の男に会い、幸運を授けられたと云われる。しかし、自らを「皇帝」と名乗り、虚栄心と権力欲に、其の幸運の星を使った事に「朱い服の男」は腹を立てた。自ら宮殿に赴き、ナポレオンから幸運を剥ぎ取ってしまった。
ナポレオンの悲劇は此処から始まったと云われる。

時代が遡りますが、
アンリ4世は暗殺される日の早朝に「朱い服の男」を視ている。また、マリー・アントワネットは仏蘭西革命前夜、宮殿の廊下で「朱い服の男」に会った。
兎角(とかく)、此の男が現れると凶事が起こると云われる。まるで「モスマン」のようであります。

怪奇な予言をするもの

此の「朱い服の男」は、サンジェルマン伯爵なのだ・・・と云う。


単純に考えるならば、彼は生きている頃、何やらの研究で、タイムトラベルを可能にしたようであります。其れなら話の辻褄が合う。合うには合うけれど、屯でも無い空論ではあります。科学の天才だったのではないか?

貴婦人たちにプレゼントした美肌効果があると云う「おしろい」。現代的には「保湿クリーム」を既に此の時代に完成させたのかもしれない。
| 23:06 | 玄妙妖奇事件 | - | trackbacks(0) |
千里眼者たちの憂鬱

↑御船 千鶴子

御船 千鶴子(みふね ちづこ)明治19年(1886年)7月17日 - 明治44年(1911年)1月19日)。透視能力者として福来友吉博士に紹介された女性。

かの鈴木光司氏の小説「リング」。貞子の母親のモデルとされた女性であります。其の後、高橋貞子と云う千里眼者も存在していたので、明らかに此の時代の人物を根底に置いている。

千鶴子はどのようなことを行ったのか?
明治42年(1909年)、千鶴子は世間で催眠術による内透視治療と云う心霊療法を行なっていた。明治30年代半ば(1900年)、催眠術ブームで、民間療法に寄る民間医が多数存在した。

千鶴子が世間に知れたのは、明治42年8月14日付「東京朝日新聞」記事からであります。「不思議なる透視法」として、千鶴子が京都帝国大学前総長・木下広次の治療を行なったと報じている。透視能力を直接に実験したのは、京都帝国大学医科大学教授・今村新吉であります。カードを用いた透視実験で、高い的中率を示した。

明治43年(1910年)4月9日、福来と今村の二人が熊本を訪れ、より厳重に封印されたカードを用いて実験が行なわれたが、失敗した。だが、方法を変えて実験を行なうと、的中。同月25日、東京帝大学で実験報告を行い、脚光を浴びるようになった。

同年9月14日、15日、17日、上京した千鶴子たちと福来、科学者たち、ジャーナリストらを集めた公開実験が行なわれたが、千里眼能力に対する答えは出せなかった。実験を行う際、千鶴子は背を向けて座り、壁や障子に向かい行なった。千鶴子の手元は目に触れることがなかったため、疑惑が生まれた。

「陰痴気(いんちき)?或いは手品の類い?ではないのか?」

千鶴子は熊本に帰った後、明治44年(1911年)1月19日に自殺した。

長尾郁子
千鶴子と同時代に長尾郁子(ながお いくこ・明治4年(1871年)-明治44年(1911年)2月26日)と云う超能力者が居たことは、あまり知られていない。香川県丸亀市の判事・長尾与吉の夫人。郁子は災害等の予言を的中させると、近隣で評判だった。千鶴子の一連の報道を知り、同様の実験を行なった処、見事に的中し、福来が目をつけた。

福来と今村が郁子に実験を行なったのは明治43年11月12日であります。
郁子と千鶴子の相違点は、同席者と相対し透視を行い、的中させた。彼女によって初めて「念写」の実験も行われた。福来は千鶴子にも行ったが失敗に終わっていた。郁子の場合、文字の念写に成功した。其の後、福来らは丸亀にて郁子の実験を中心に活動するようになる。

明治44年(1911年)1月4日、念写実験が、丸亀の長尾宅で行なわれた。東京帝国大学元総長・物理学者 山川健次郎が同席した。結果は、実験に同席した東京帝国大学物理学教室講師・藤教篤が乾板を抜き取ると云う妨害行為を行い、実験は中断した。
更に、文字を書く場所を要求した。其の部屋で長尾は透視出来なかった。透視が的中時と不適中時の条件はどうであったか?透視が当たった時は、袖で隠さず書いた時、封を空けた跡が視られた時、其のような不審点が見受けられた時だと山川博士側は、判断した。

同年1月12日の実験でも妨害行為があった。妨害者として、長尾家に投宿し、郁子とも親密だった催眠術師・横瀬琢之の名が挙がったが、郁子と横瀬の不倫疑惑のゴシップへと世間の関心は移った。肝心の「千里眼」「念写」の真偽は何処へ行ったのか?

長尾郁子側は以後、実験を拒否し、同年2月26日、郁子は急性肺炎で急逝した。
死さえマスコミは長尾家への非難材料として扱った。

山川博士らは、写真を添えて物理の実験結果と同様に公表し、「透視、念写は詐欺である」と結論付けた。

つまり、陰痴気だと発表されたのであります。

福来は、2人をはじめとして、彼が取り上げた人物以上に「イカサマ師」「偽科学者」などと攻撃を受けることになり、東京帝国大学を辞職する。其の後、月の裏側写真で知られた三田光なども「千里眼」能力者の実験を重ねるようになるが、以後の「実験」は千鶴子や郁子の時のように科学的な公開実験ではなくなり、また福来自身も、科学的な手法によって「千里眼」能力は実証し得ないと、公言するようになった。


実験に携わったのは、東京帝国大学の方達が中心であります。
つまり、社会的地位のある教授たちが「千里眼は陰痴気!」だとしたのであります。社会的影響は大きかったに違いない。日本人にはオカルトやらの文化が此の時代以前まで。確実に存在じておりました。室町、平安時代などから起こります。此の事件を発端にそういう文化やら根付きが失われていったと云っても過言ではない。
福来博士は、何とか証明しようとしたに違いない。しかし、志(こころざし)半ば断念した。
此の事件を切っ掛けに、こういうものには、皆、「疑い深く」なって行くのであります。
| 14:26 | 玄妙妖奇事件 | - | trackbacks(0) |
常世蟲
海

常世の国は、海の彼方にあるとされた。時間と云うものが無い世界、不老不死の国であります。
浦島太郎は此処に行って来たのだとされている。其の世界には、常世の木と云う植物があり、不老不死の仙薬になる「香(かぐ)の木の実」を生わす。其れは現世では「橘」の木だとされた。橘は常緑樹で雪の中でも繁茂し、実も保存がきく。そういう経緯で常世の木と同一視されたのであります。橘に寄生する蟲(むし)を常世蟲(とこよのむし)と呼び、古代、常世神とした騒動があった。

「日本書紀」には、
「この蟲は、常に橘(たちばな)の樹に生る。または山椒(サンショウ)に生る。長さは4寸、親指ぐらいの大きさで、色は緑で黒点がある。形は蚕に似ている。」
と記述されている。

皇極天皇3年(644年)、秋7月駿河富士川の畔の人、大生部多(おおふべのおお)が、村人に現世利益が得られると云って、「蟲祭り」を行うよう進めた。「此れは常世神である。此の神を祀れば、富と長寿を授かる」として巫覡(かんなぎ)等も神託と偽り、触れ回った。人々には財産を棄てさせ、歌い踊らせて酒や食物を道端に並べさせた。
信仰はどんどん広まり、人々は「常世蟲」を採ってきて清座に祀り、歌い舞い、財産を棄捨して福を求めた。しかし、全く益する事は無く、膨大な損害だけが残った。

山城国の豪族・秦河勝(はたのかわかつ)は、民を惑わした科(とが〜罪)として大生部多を討伐した。

時の人は河勝を讃え、
太秦(うずまさ)は 神とも神と 聞こえくる 常世の神を 打ち懲(きた)ますも
秦河勝は、神の中の神と言われている常世の神を打ち懲らしめた
と歌った。

常世神と云う御神体は、揚羽蝶(アゲハチョウ)の幼虫ではないか?と云われている。
可成り詐欺的行為であります。現代でも似たような事が其処等で起こっておりますな。
| 11:19 | 玄妙妖奇事件 | - | trackbacks(0) |
ツングースカ隕石落下の謎
ツングースカ
1908年、ロシア、シベリアのツングースカ上空で何かが爆発し、半径20kmの木々を焼き払い、円形に薙ぎ倒す事件が発生した。其のエネルギーは、広島の原子爆弾よりも2000倍の力であろうと云う。空中の閃光は、落下地点から5000km離れたサンクト・ペテルブルグの住民にも視得たと云う。シベリアの奥地のため人的被害は無かったとされているが、反対に奥地であるが故、実際に何が起ったのかは、中中解明されなかった。

隕石なのか?UFOなのか?軍の極秘武器なのか?

第一次世界大戦、ロシア革命の数年前、日露戦争後の間も無い時期だったので、ロシア国内は混乱しており、現地調査は暫く行われなかった。最初の現地調査が行われたのは爆発から13年、ソ連成立後の1921年に天文学者レオニード・クーリック(Leonid Kulik)率いるソ連科学アカデミー調査団によって行われた。クーリックはツングースらから聞き取り調査を行い、落下する火球が目撃され、衝撃音は20数回続いたことを確認した。其の後、クーリックは「落下した天体は隕石」と考え、4度の探検を行ったが、隕石の破片などは見付からず、事故の原因は解明出来なかった。一体何が起こったのか?は現在まで世界の学者の間で論争が続いている。

否!何やら隠しているのかもしれない。

ツングースカの隕石?による破壊力は、TNT火薬にして10〜15メガトンと推定される。石質隕石と云う物で、空中分裂し、中心では木が倒れず、周辺の木が外側に倒れる奇妙な現象が起きたと考えられている。爆発地点では地球表面には殆ど存在しないイリジウム元素が検出された。

隕石
↑1927年、クーリック探検隊によって撮影された写真。一定方向に約8000万本の木々が、薙ぎ倒されていたと云う。

1960年代、本格的な現地調査が行われるようになった。倒木の倒れている向きなどの綿密な地図が作られたことで爆心地や爆発力、入射角、爆発時の速度などが判ってきた。

2007年、ツングースカ宇宙現象基金のユーリ・ラブビン(Yury Lavbin)理事長が、調査団を組織した。此の調査団は隕石約3トンを回収したと云う。しかし、盗難にあい、地元警察当局に通報し、世界的ニュースとなった。
更に調査団は現地で、表面に三角形の幾何学模様が刻まれたクリスタル質の物体を発見した。此の物質は地球の技術力で作ることは難しく、異星人による宇宙船の残骸だと発表した。

残骸
↑宇宙船の残骸と云われる物体

ラブビン理事長によると、此れまでの研究結果から、ツングースカ大爆発は、「異星人の宇宙船と隕石が空中で衝突したことが原因である。巨大隕石落下による地球的大災害が起きるのを食い止めるため、異星人が自己犠牲的精神で、宇宙船ごと隕石に体当たりしたことによる、副次的爆発が原因である。」と、示した。


異星人が自己犠牲的精神・・・俄(にわか)に信じられませんな。わたしゃ隕石落下だろうと思っていたんですが、抑(そもそも)、隕石の欠片さえも視つかっていないとは驚きです。盗まれた・・・なんて云っていますがね。何も手元に無い。在るのは「宇宙船の残骸」と云われる物体のみであります。
| 22:35 | 玄妙妖奇事件 | - | trackbacks(0) |
マウナ・ロアの呪石

マウナ・ロア

ハワイ島には標高4000m超の山が2つあります。マウナ・ケアとマウナ・ロアです。
マウナ・ロアで噂される話と事件です。
マウナ・ロア山(Mauna Loa)は、ハワイ島の活火山。有史以来、噴火は30回を超えていることがわかっている。1984年3月から4月の噴火は世界的にも有名。マウナ・ロア山を中心に国立自然公園が管理されており、一大観光名所であります。観光客の中には、訪れた記念に麓に散らばる溶岩石を持ち帰る人がいる。

1977年、某航空会社社長ラルフ・ロファート一家は、バカンスで常夏のハワイを満喫し、マウナ・ロア山を訪れた。他に漏れず一家も此処の石を持ち帰った。素志て、ハワイでの休日を終え、ニューヨーク州バッファローの自宅に帰宅した。
其れから数日後に、14歳の長男マークは野球の試合中に転んで足首を捻挫(ねんざ)し、更に膝の骨を痛めた。更にホッケーの試合時にもマークは、肘(ひじ)を骨折した。
同じ頃、12歳の次男ダニーは、フットボールの練習中に左手の骨に罅(ひび)が入る怪我をする。後日、森の中をジョギング中に木の枝に突っ込み、瞼の筋肉を切った。
11歳の三男トッドは、バスケットボールの試合中に腕を折り、其の後には急性盲腸炎を起こし、入院した。更に、転んでもう片方の手を骨折、肘関節まで脱臼する。
7歳の末っ子レベッカはブランコから落ちて前歯を2本折った。其の治療が終わる直前に、又、同じ前歯を2本折った。

母親のダイアンは、
「どうも怪訝(おか)しい。ハワイ旅行から帰って来てから災難続き。何かあるのかしら?」と、項垂(うなだ)れた。
「然う云えば・・・変な忠告があった」
ハワイで現地の長老が「マウナ・ロアの石を持ち帰ってはいけない。此の火山にはペレと云う女神がおって、石を持ち帰る者は、神聖な山を冒涜(ぼうとく)したとされ、呪われるんだ」と、云っていたのを思い出した。
藁をも掴む心境で、其の石達を箱に詰めてハワイの友人に郵送し、マウナ・ロア山の麓にばらまいて貰う様に手配した。
すると嘘の様に災難は止まった。
しかし、マークだけが止まらなかった。相変わらず肩を脱臼したり、大腿に怪我をしたりしていた。実はマークは、石を集めた時、渡したくなくて、こっそり机の中に隠し持っていたのであります。其の石もハワイに郵送すると完全に何事も起こらなくなった。

「矢張り、マウナ・ロアの呪い・・・としか思えない」

実は石を持ち帰り、もっと悲惨な眼に遭った人達が多く居る。持ち帰ると忽ち、大怪我をする人は無論、癌に侵され急死する人、交通事故で亡くなる人と、死人まで出している。
ハワイ島の公園管理局には、連日持ち帰った石を小包で送り主無記名で送り返して来ると云う。
現地では「そんな話は瞞(まやかし)だ。デマだ!」「厭、厭、其の呪い伝説は本当ですよ」と、例の如くであります。


山神伝説は世界中に存在します。内容は色色ですな、中には人を喰う化物としか思えないような、魔物まで。日本などは神奈備(かむなび)伝説、三輪山伝説などが有名です。

神奈備

蛇神

ハワイの様な活火山の女神ともなれば、燃え滾(たぎ)る様な激しい気性の神様かもしれません。恐ろしや・・・。しかし、石を戻すと呪いが解ける・・・って、けっこうサバサバした女神さまとも思えますな。
| 22:04 | 玄妙妖奇事件 | - | trackbacks(0) |
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