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あ や し い 書 簡 箋

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せごどんの心情
司馬

久々の司馬さんです。西郷さんが何故決起してしまったか?(西南戦争)なんて話です。


せごどん
↑せごどん(西郷隆盛)

此の肖像画は以前から疑問視されていますね。「似ていない」と云われます。描いた画家も何やらの情報のみで描いたのだと云う。つまり、本人を視ていない。西郷に会ったアーネスト・サトウが「眼が大きな黒ダイヤのよう・・・」との記述から、このような画になったらしいが、幾ら何でも眼が大き過ぎでしょ。奥さんさえ、銅像なども含めて「似ていない」と云っております。

幕末の人達は結構皆さん、写真を撮っている。好奇心旺盛です。しかし、西郷さんは1枚も残っていないのです。撮ったのかどうかさえ、解らない。其れが「西郷ミステリー」ですが、そんなことよりわたしゃ、西郷さん自身に興味があるんです。そっちの方がもっと西郷さんと云う人の深いミステリーであり、人間味であり、変革の時代の恐ろしさなんだけどなあ。

以前から西郷さんの最後の行動には疑問を持っていた。新政府を推進した1人にも関わらず、何故、決起したのか?其の暴挙を止めるため兵を出したのは、幼馴染みの大久保一蔵です。大久保の心情なども痛ましいです。
司馬さんは此の二人を「翔ぶが如く」と云う小説に書いているけれど、今日は「街道をゆく」の一説からです。


街道をゆく「熊野・古座(こざ)街道〜薩摩の話」一部

西郷隆盛は、幼いころ小吉とよばれ、のち、吉兵衛、吉之助などと称した。
かれがうまれた方限(ほうぎり〜集落の区切り)は、城下の甲突(こうつき)川の下加冶屋町だった。七、八十軒ほどの下級士族の屋敷のならんでいる地域で、碁盤の目で区切ってそれぞれの屋敷の敷地ができている。

若いころのかれは当然ながらその方限の若者組織(若衆)に属した。薩摩ではこんにちの小学就学年齢の者を稚児(ちご)といい、稚児は稚児で郷中組織がある。長じて十四、五歳になり、前髪を切って元服すと、その年齢から兵児(へこ〜もしくは二才)になる。結婚するまでのあいだ、町内の若者組織に所属し、郷中頭の指導をうける。若者の教育に関しては郷中頭(ふつうは十八歳ぐらい)の権限は絶対にちかいもので、若者達は両親よりもむしろ郷中頭に服従する慣習があった。

西郷は早くにえらばれて下加冶屋町の郷中頭になったが、よほど評判がよかったらしく、二十をすぎても下の者がやめさせてくれず、異例なことに、二十四歳というトウの立った年齢のなるまでつとめていた。このことは西郷の西郷的人格の形成と政治力とそれに生涯の運命にかかわりがあったかと思える。

西郷は幕末の風雲期に、京都で革命外交を旋回させていたころ、その幕僚のほとんどは自分が郷中頭だったころの下加冶屋町の旧二才たちだった。西郷にすればかれらなら気心が知れているし、安んじて追い使うこともできたのであろう。
維新が成立すると、それらの旧二才衆が新政府の官僚になり、明治六年に西郷が征韓論にやぶれて鹿児島に帰山したときも、ともに辞職はしなかった。むしろ他の方限の出身者が西郷を慕って下野した。

やがて西郷とかれらが、鹿児島士族の二才衆を組織して在校一万余人という私学校をおこすが、私学校組織は巨細(こさい)に見ると、もとの郷中組織であるにすぎない。
かれら薩摩の若衆組が反政府反乱に立ちあがったとき、桐野利秋(きりのとしあき〜人切り半兵衛)でさえ、はじめその気分をおさえようとした。しかしおさえきれなかった。西郷がこの武装決起に反対だったことは明瞭な証拠がいくつもあるが、しかし西郷は事実上起ちあがってしまったときに、おさえることをあきらめ、「自分の体をあげよう」といって、かつがれてしまった。

この間、西郷の思考には飛躍があり、ふつう「なぞ」とされている。しかし西郷の決断はかれの成熟しきった理性によるものではなかったであろう。
慣習(若衆性の)であったのではないか。

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武装決起とは西南戦争のことであります。西南戦争と云うものは犬死に戦争であります。勝てもしない戦いに士族(元侍)たちが決起したのであります。侍たちの此れが最後の抵抗だったんでしょう。現地では今も弾丸が土の中などから出るそうです。決起は失敗し、全滅。西郷さんは自決。桐野利秋は其の後、敵陣地に飛び込み、雨霰(あめあられ)の銃弾を受け、壮絶に戦死。此れを持って侍の世は終わった。

文中に出て来る「若者組織、若衆、郷中組織、二才」などの言葉が、よく理解できない。
其の昔、在郷には若者が集団を作り、年下などを教育?する社会風習が在ったのだそうだ。今でも近いものが残ってはいるが、絶対的であったことが重い。
「若者組織」は上下関係のある1つの社会であったそうな。

西郷さんは死を覚悟で、大若者頭の責任をとった・・・・のかもしれない。根底に若者組織の気概があったはずですが、わたしにゃ解る様な解らぬ様な。
| 22:28 | 司馬さんは何を考えていたんだろう | - | trackbacks(0) |
光る本
司馬

今回は司馬さんの言葉ではなく、自身の司馬さん絡みの不思議体験です。

寝る前にベットで本を読むのが、習慣になっていた時期があった。眼に悪いと云うので現在はやっていない。其の頃は、特に司馬さんの本を虱(しらみ)潰しに読んでいた(全部、文庫本ですけどね)。
或る夜中、目が覚めて小便をしに雪隠(せっちん〜厠、便所)に行き、寝床に戻って来た。わたしゃ寝る時は、部屋中真っ暗か小玉電球のみじゃないと駄目なんです。然(しか)し、ベッド脇から光が漏れていた。其処は読みかけの司馬さんの本を置いた場所であります。

何と!其の本が自ら光りを発し、ぼ〜〜っと光っていたのであります。
暫く視て居た。其の内、すーーーーっと悠寛(ゆっくり)と消えたのであります。其の後は覚えていない。兎に角寝てしまった。

朝、起きて暫く情報番組やらを視ていると、「国民作家と呼ばれた司馬遼太郎さんが永眠されました」と云うニュースが流れた。
司馬さんが入院されたことは知っていたけれど、亡くなってしまったのであります。

昨晩の現象は、司馬さんからの何かのメッセージだったに相違ない。
もしかしたら、ファン全員に感謝の意味で贈ったのではないか?魂が分裂して挨拶しに来てくれたのか?気遣いの人でしたからね。其のメッセージを幾人の人が体験したのか?其れは知らない。

司馬 遼太郎(しば りょうたろう)1923年(大正12年)8月7日 - 1996年(平成8年)2月12日)。本名:福田 定一(ふくだ ていいち)。
日本の小説家、ノンフィクション作家、評論家。筆名の由来は「司馬遷に遼(はるか)に及ばざる日本男子(太郎)」。

文庫本

司馬さんは寿命を解っていたみたいで、小学生たちにこんなメッセージ(遺言)を残している。国語の教科書に掲載された文章です。

二十一世紀に生きる君たちへ

| 06:52 | 司馬さんは何を考えていたんだろう | - | trackbacks(0) |
遮光器土偶について
司馬遼太郎

暫く、パソコンの調子が悪かったです。久々の更新になります。
今回は亀ヶ丘遺跡の謎の「遮光器土偶」について言及しています。

遮光器土偶
↑東京国立博物館蔵「遮光器土偶」

亀ヶ丘文化は、灯台のように東北一円を照らしていただけでなく、遠く西日本にまで影響をあたえていたらしいのである。
ここから出土した圧倒的なものは土偶類であった。
とくに”遮光器土偶”がすばらしい。

似たものは県下のほうぼうの遺跡から出土しているが、明治19年(1889)にここから出土したものが、もっともすばらしく、一度見るとその形象はわすれられない。
女性一般の像である。
古代人は、写実がつまらないとおもっていたらしく、好きな(あるいは神秘的な)部分を思いきって誇張した。この場合は目で、眼窩(がんか)が誇張され、両眼が顔からはみ出るほどに大きく、しかも瞳は入れない。眠ったように眼裂は横一線で間にあわせている。鼻孔と口には関心がうすかったのか、ごく小さく付け足されているだけである。

強調される両眼の表現が、イヌイット(エスキモー)が晴れた雪原でつかう遮光器に似ているために、考古学では遮光器土偶とよばれてきた。
髪はちぢれて盛りあがり、ネックレスを用い、ウズマキ模様の衣服をつけ、胸には乳房が強調され、四股(しこ)は赤ちゃんのようにみじかい。
宗教的理由なのか、右腕が欠けたりもする。亀ヶ丘文化のこの遮光器土偶の代表とされるものも、左脚が、欠けている。
誇張がはげしいために、全体として怪奇である。ただ小さい。大きいもので二十センチほどである。だから怪奇さよりも、多装飾による神秘感のほうがつよい。
ともかくも、人体という現実からほど遠いものである。
現実から遠いほど、呪術性があったのかもしれない。もっとも単に呪術性を目的にするならもっと簡素な造形も存在する。この遮光器土偶の場合、過剰に変形され、わずらわしいほどに装飾がほどこされている。

「意図はなんだったんでしょう」
車中、鈴木さん(同行の青森県庁内考古学者)にきいてみた。鈴木さんは、ご自身なが年考えてきたことらしく、私の顔をまっすぐ見て、
「芸術だったと思います」
いい解釈だと思った。

街道をゆく〜北のまほろば


遮光器土偶を視て「宇宙人だ!」「此れは古代に来た宇宙服を来た宇宙人だ」と云う話をよく聞くし、本にも出て来る。確かに其のまま視れば、人間とは思えない。しかし、身体全体の文様は明らかに古代シャーマン(巫女)ではないか。通常シャーマンは女性であり、此の土偶も明らかに女性であります。
問題は兎に角、此のデフォルメはなんだ?なんですな。此処から「宇宙人だ!」と、直ぐ騒ぐ輩が出て来る。
わたしも結構あやふやなものを此処に載せていますが、「芸術だったと思います」には、納得であります。こりゃ、前衛芸術ですな。つまり、此の時代、そういうものを考える程、文化が進んでいたんでしょうね。
| 23:23 | 司馬さんは何を考えていたんだろう | - | trackbacks(0) |
淡路妖怪狸
司馬

妖怪狸の話であります。
ファンは、誰でも知っている通り、司馬さんはユーモア・センスも一流です。堅苦しい歴史話ばかりの人では無いんですぞ。取材ついでに出て来た、絶妙な妖怪狸の話。本に書いたのですから、此の土地の大事な一部分だと思ったに違い無い。
尚、文中の樫本さんとは、和歌山県東由良漁業共同組合の当時の組合長さんであります。
須田さんとは、街道をゆくの挿絵を担当した画家さんであります。


「わしのお祖母(ばあ)さんが、夜、浜へゆくと、海のタヌキが大ぜいで灯をつけて出て来よりましてな」
べつにいたづらはしないが、そんな光景をたしかに見て、孫の樫本さんに話されたという。
それまで黙っていた須田さんが、ゆっくりとした口調で、
「海にも、タヌキが居るのですか」
と、質問された。
これは、樫本さんの話し方がよくなかったらしい。樫本さんのいう海のタヌキとは、浦に住むタヌキ、という意味らしい。しかし須田さんの脳裏では、夜の海がひろがっていて、その波間を無数のタヌキが頭に灯をともして泳いでしまっているのかもしれなかった。

豆狸
↑竹原春泉/絵本百物語「豆狸」
どでかい陰嚢を冠って化けようとする狸

四国はキツネの民話がほとんどなく、タヌキ話ばなしで充満している。讃岐の禿狸、伊予の八百八狸、さらに阿波へゆくと、タヌキにも何左衛門とか何兵衛とかという名がある者がいて、あちこちの山に陣をかまえ、たがいに多数の郎党をひきい、ついには何河原で合戦に及んだりする。淡路は、タヌキについては濃厚に四国の影響をうけているのである。
「海にですか」
樫本さんは、須田さんの質問の意味が解せなかったらしい。互いの脳裏にある「海」というイメージがちがっていて、須田さんは果てしない波濤(はとう)がはるかに天を打つ大洋を想像するが、樫本さんの「海」には陸がある。漁村という陸をふくめての「海」なのである。「海のタヌキ」といえば漁村のタヌキであり、「山のタヌキ」といえば、農村のタヌキにちがいない。
樫本さんの返答が、自然、混乱した。
「タヌキで有名なのは三熊山・・・」
と、右手をあげて、右側を示した。この部屋から右の方角に、三熊山がある。
「三熊山ですか」
「そうです、三熊山の芝右衛門です。芝右衛門は芝居が好きで、大阪の道頓堀へ芝居見物に行ったかえり、神戸で鉄砲に射たれて死にました」
「神戸で。・・・」
須田さんがうなずき、なにやら禅問答めかしくなってしまった。

街道をゆく〜明石海峡と淡路みち
| 21:57 | 司馬さんは何を考えていたんだろう | - | trackbacks(0) |
漱石の悲しみ
司馬

夏目漱石

菫(すみれ)ほどな小さき人に生れたし

夏目漱石30歳の時の一句である。
私自身の思い入れのせいか、漱石の人と生涯と作品が、
この一句でわかるような気がする。

悲しみ「風塵抄」
| 10:16 | 司馬さんは何を考えていたんだろう | - | trackbacks(0) |
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